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「矯正専門医」大塚 淳の一診入魂

最後の冒険家

お奨めの本

【こんにちは 大塚矯正歯科クリニックの大塚 淳です】
今日の岡山は快晴です。
セミナーのパワーポイント作成に四苦八苦している毎日です(笑)
室温 19.5度
湿度 46%
今日はお奨めの本です。

最後の冒険家
石川 直樹 (著)

当時の日本の 熱気球の第一人者「神田 道夫」の物語です。
大塚お得意のノンフィクションです。

神田氏は、2008年1月31日早朝、栃木県栃木市から北米大陸に向けて出発。自宅には衛星電話で随時連絡があったが、1日午前3時を最後に途絶えました。

合掌

第6回開高健ノンフィクション賞受賞作
著者は太平洋横断に同行した
石川 直樹氏
著者が作家を生業にしてないため
文章が臨場感にかけますが
当の本人が書いているので
重みがあります。

表紙の写真がリアルです。
写真は最後のフライト直前の写真です。
家族はいつも見送り来てなかったようです。
気持ちはわかるような気がします。

こういった生き方が
あるんだなと思いました。

合掌

神田道夫 かんだ みちお、1949年12月)は、埼玉県比企郡川島町在住の日本の冒険家。熱気球による長距離飛行や山越えに挑戦していた。埼玉県比企郡川島町教育委員会職員。

28歳の時にテレビで熱気球に魅せられ、29歳の時に熱気球のパイロットの資格を取得する。その後、数百回の飛行を重ね、1984年に中軽量級長距離世界記録を達成したのを始め、同-高度世界記録、同-長距離世界記録、同-滞空時間世界記録などを樹立した。2004年と2007年には熱気球による太平洋横断に挑戦したがいずれも成功しなかった。三度目の挑戦で行方不明となり、死亡したものとみられている。

第1章 出会い
第2章 気球とはなにか
第3章 富士山からエベレストへ
第4章 滞空時間世界記録とナンガパルバット越え
第5章 熱気球太平洋横断
第6章 単独行
第7章 ひとつの冒険の終わりに
第8章 悪石島漂着

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石川 直樹
1977年東京都生まれ。高校時代にインド・ネパールを一人旅して以来、世界中を旅するようになる。2000年、地球縦断プロジェクト「Pole to Pole」に参加して北極点から南極点を人力踏破。2001年にチョモランマに登頂し、世界七大陸最高峰登頂の最年少記録を塗り替えた。写真集『POLAR』(リトルモア)、『NEW DIMENSION』(赤々舎)により日本写真協会新人賞、講談社出版文化賞写真賞を受賞。東京芸術大学大学院美術研究科博士後期課程修了。多摩美術大学芸術人類学研究所研究員。『最後の冒険家』で、第6回開高健ノンフィクション賞受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

内容紹介
第6回開高健ノンフィクション賞受賞作。
地理的な冒険や探検といった行為が困難になりつつある時代に、誰よりも冒険家としての気質を発揮し続けていた人物・神田道夫がいた。その原動力は?何が未知なる冒険に駆り立てたのか。2度にわたって行われた熱気球太平洋横断遠征の顛末を追いながら、彼との出会いと別れを通して神田氏の飛行の軌跡を描く体験的なルポルタージュ。冒険の時代が終わった現代における冒険論でもある。

熱気球による冒険によって数々の世界記録を打ち立てた神田道夫。埼玉の町役場に勤める地方公務が、空の世界では最強の冒険家だった。熱気球中量級の長距離飛行世界記録、カナダで滞空時間世界記録を樹立、エベレストやK2越えといった冒険飛行に挑戦、西ヒマラヤ最高峰ナンガパルバット越えに成功。最も権威あるモンゴルフィエ・ディプロマ賞を日本人として初めて受賞。00年に植村直己冒険賞を受賞。その神田が、08年1月、熱気球による単独太平洋横断に挑戦し、太平洋上で行方を絶った。このニュースは新聞テレビなどで大きく取り上げられたが、行方はわからず、飛行の詳細も不明のままだ。筆者は4年前におこなわれた最初の太平洋横断に副操縦士として同乗し、太平洋上に不時着水して共に生死の境をさまよった。神田道夫の足取りを追うことは、筆者に課せられた使命でもあり、不屈の魂の記録として書かなければならなかった物語でもあった。
内容(「BOOK」データベースより)
熱気球による太平洋横断の途上で消息を絶った神田道夫との4年半。第6回開高健ノンフィクション賞受賞作。
著者について
高校時代にインドを一人で旅して以来、世界中を旅するようになる。2001年世界七大陸最高峰登頂の最年少記録を塗りかえた。02年早稲田大学を卒業。
写真集&個展『THE VOID』により、さがみはら写真新人奨励賞、三木淳賞受賞。
本作で、第6回開高健ノンフィクション賞を受賞。

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